こびりついた記憶
都内で生まれ育ち親戚も都内にいる私が、女性として生まれ落ちたことを恨んだきっかけは、親戚での集まりだった。
父方の祖父は、8人兄弟の長男。あと半年太平洋戦争が長引いていたら、特攻隊として出撃していたらしい。そのおかげで(こういう表現はよろしくないのかもしれないが)、年金は当時の最大額をもらっていたらしい。祖父はお金にうるさかった。バブル期にやってた投資がラッキーでうまくいき、それ以来"投資家"であることを誇っていた。80歳を超えても、デスクトップパソコンを見るのが日課だった。祖父が兄弟に「遺産放棄しろ」と言ってから、家族仲は悪くなっていったという。
祖父から冗談を聞いたことは一度もない。
口を開けば説教か、過去の栄光を話していた。親戚会で祖父が口を開くと、誰も口を挟まなかった。口を挟むと激高する。祖父が口を開いたら何も言わないよう、矯正されていった。祖父は、親戚の誰にも愛されていなかった。
たまに笑う祖父の笑顔が好きだった。説教はしかめっ面から始まる。しかめっ面から最も遠いのが、笑顔だった。
「笑顔はかわいいんだから、もっと笑えばいいのに。」
いつも祖父に対してそう思っていた。それ以外の感情は、祖父の葬式に置いてきた。私がこれから生きる上で、妨げになる可能性が高いと感じたから。
唯一明確に覚えているのは、祖父に土下座したことだけだ。
祖父は、私がテストでいい点数を取ったり資格を取ったりすると、お金をくれた。
「勉強は確実だ。だからお前ももっと勉強するように。そのためならいくらでも金は出す。」
祖父がよく孫に言っていた言葉だった。貧乏な家に育った私にとっては、ありがたい収入源だった。
「私は勉強が好きで、勉強がもっとしたいので、どうか留学費を出してください。」
祖父の言葉を信じてそうお願いした。そうしたら、祖父が激怒した。俺は金づるじゃない、ということを言っていた気がする。私は混乱した。祖父が私に怒るのは初めてだった。なぜこの人は怒っているんだろう。金は出すと常々言っていたのは祖父だったはずだ。
「土下座しろ。そうすれば考えてやる。」
さんざん喚いた後に、祖父がそういった、
「お願いします。」
3秒後ぐらいに、父が土下座しながらそう言った。
“えっ?私もするの?"
“うん、そうだよ、お前もとりあえずしときな。"
父が目でそう伝えてくる。私も父に合わせて土下座をする。
「お願いします。」
これは、初めて行った葬儀と一緒だ。目の前の人にしぐさを合わせる。それだけのことだ。そう念じた後に、震える声で祖父にお願いした。頭が真っ白になった。
私が土下座した後も祖父は何を言っていたが、何一つ覚えていない。その日は半袖短パンでも熱いぐらいの炎天下だったのに、冷や汗が止まらなかったのだけ覚えている。
そんな祖父だった。
話を親戚会に戻す。
親戚会のとき、叔母さんは台所から出てこなかった。小さいころの私は、叔母さんを"ご飯やお茶、おやつを提供してくれる人"なんだと思っていた。叔母さんは賢い人で、親戚会では一度も私語をしない。だから、小さいころは彼女が"親族"なのだと気付かなかった。
「あ、私がお茶入れますよ」
親戚会がひと段落つくと、母がいつも言っていた。そんな母を見るうちに、母は叔母さんに気を遣う立場にいて、お茶を入れることで"気を遣えるね"と言われる立場なんだ、と気付いた。いつもこう母が振舞うから、次は私の番だと学んだ。
私が最初に台所へ行ったのは、小学5年生のときだ。リビングに居ても祖父が説教するか自慢話しているだけだったし、年の近いいとこは自分の部屋に逃げていた。ずるい。私もこんな場所に居たくない。そう思って、台所へ逃げ込んだ。
「あら、お気遣いありがとうね、優しいのね。でも、そんなことしなくていいのよ。」
そんなことしなくていい。その言葉が忘れられない。
「まだ若いんだから、そんなことしなくていい」なのか、「あなたはお客様なんだから、そんなことしなくていい」なのか。未だに分からない。でも、"ご飯やお茶、おやつを提供してくれる人"に従事している叔母さんすら、"そんなこと"と思っているのが"ご飯やお茶、おやつを提供すること"なんだと思うと悲しくなった。あんなに美味しいご飯とおやつを作る叔母さんすら、そういうことを言うんだと思った。
台所に逃げ込んで以来、心にもやもやが住み着くようになった。よく見ると、親戚会では、女性は"ご飯やお茶、おやつを提供してくれる人"で、男性は"食事をして歓談する人"だった。そこに年齢は関係なかった。女性か、男性か。それだけ。
「アンタ、そろそろそれぐらい(言われなくても自主的に)できるようになりなさい」
そう言われている従姉妹を見たことがある。女性は、ウェイターとして接客をしないと嫌味を言われるのだと学んだ。その一方、従姉妹の弟は、リビングで胡坐をかいて祖父の逆鱗に触れていた。
心にもやもやが住み着くと、いろいろなことが見えるようになった。
「靴下がない」と祖母を叱る祖父。入院した祖父のもとに、毎日8時に家を出て向かう祖母。ストレス発散のためにお叱りを受ける祖母。何をするにも祖父へお伺いを立てる祖母。「私は祖父のおかげでこんないい暮らしをさせてもらってるのよ、感謝が尽きないわ」という祖母。
朝6時に起きて朝食と弁当を作り、父を送ってから、洗濯物を回し、18時まで働きに出、夜ご飯を作り、湯舟を沸かし、夜中に自分の時間を取り戻すように死んだ目でドラマを見る母に対し、「俺が働いているんだからお前も怠けるな」と叱る父。ヒステリックな喧嘩。
ああ、なんで私は人を叱る方の立場に生まれてこなかったんだろう?
私が思うのはこれだけだった。女に産みやがって、と両親を恨んだ。女性として生まれた以上、こんな理不尽な場所にはいられない、と思った。この場所から逃げるためにはどこへ行けばいいのだろう?そんなことばかり考えた。現実から逃避しないと生きていられなかった。
祖母は、祖父が死んでから生き生きするようになった。祖父がいるときの祖母は、私に理不尽を教える人に過ぎなかった。今の祖母は愛にあふれている。私は今の祖母が好きだ。
これが私にこびりついた記憶だ。